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第5部「再度見出された現前」/ルイ・ラヴェル『全的現前』(1938年)

  フランスの哲学者 ルイ・ラヴェル (Louis Lavelle, 1883-1951) の著書『全的現前(la presence totale)』を読んでいる。実のところ、彼の哲学にはどうしても納得がいかず、読むたびにすっかり疲労してしまう。

 もやもやとひっかかる箇所を訳出、メモしておく。

 下は第5部の目次。

第5部 再度見出された現前

Ⅰ 哲学は存在の内的生成である

Ⅱ 一切の個別的行為同士は相殺する

Ⅲ 時間は事物のうちもっとも優れたものであり同時にもっとも劣ったものである

Ⅳ 個人は彼の活動が鈍れば時間の奴隷である

Ⅴ 現実は永遠の現在に到る手段である

Ⅵ 行為が行われるところの現在における行為のほかに我々のものはない
(訳がまずいが改める気にならない。)

Ⅶ 行為はひとつであり非時間的である

Ⅷ 哲人は一切の状態にも関心がない

Ⅸ 享受は行為そのものの完全化である

  ラヴェルの哲学観。

 「哲学があらゆる人間精神に対して特権を有するのは、哲学が我々に宇宙についての全体的な説明を約束するからに他ならない。…我々は哲学に、現実の内的生成に立ち会わせるよう要請するのだ。」

 

 Louis Lavelle, 1938年, La presence totale,  211p

  次の一節にはラヴェルの考えがよく表れている。

 「話すことの役割、それは見えないものについて証言することだ。最も完璧な証人とは、彼が証言するまさにそのものを目の前にあるかのように描きながら、わたしたちにとって見えなくなる証人である。良し悪しを決めるのは、最悪な証人はわたしたちの注意をすっかりひとり占めしてしまうのに、最もすぐれた証人はガラスのように、それ自体は注意を全くひくことなく素通りさせるということだ」

 

 Louis Lavelle,1942年, La parole et L’ecriture

  『全的現前』最終段落。

  「それ[行為]は散逸も障害も知らない。行為は我々の目には人格の成功として映り、その人格は行為を実行することで、同時に解放であり創造もである働きによって人格そのものを成就するという喜びを覚える。行為が示すのは、いかなる時間の流れも変ええないような内的な統一である。行為が行われる状況は多様であるけれども、わたしたちはつねに行為を自分自身に似ていると認める。」

 

 Louis Lavelle, 1938年, La presence totale,  250p