汎大学ノート

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価値の源泉

 大衆消費論、って堕落とか欲望の際限なさとか価値は仮象にすぎないとか、すーぐ終末論じみた雰囲気をおびがちですが、そういやマルクスって大衆消費についてはなんて書いてるんだろう、と思い調べた。すると、彼(とエンゲルス)が「労働」と「労働力」を区別していることにつきあたる。『賃労働と資本』改版の際にエンゲルスが相方の本意として書き改めているように、労働者が売っているのは労働ではなくて労働力なのである。

 労働を自然物へのプラスアルファ=付加価値とすれば、労働力は労働=価値をつくり出す、という本質的に未知数な性質をもつ。このワイルドカード=無限としての労働力が有限内で価値づけられ、やりとりされてしまうことが等価交換のうちに利潤を発生させるからくりなのだ。が、マルクスの労働力観は資本主義のいち原理にはとどまらない、と思う。

 マルクスの資本主義理解は消費の側面に乏しいが、それには理由がある。提起したいのが、労働者の所有からの疎外=窮乏という事態であるため、多少の所有を前提とする消費行動は議論の中心から外れざるをえない。

 じゃあ大衆消費論とマルクスは縁遠いの、といえばそうでもない。マルクスにとっても、本質的には多数者である労働者=大衆こそが価値決定の主体である。かれらは価値の源泉たる労働力を売り渡すがために、資本主義の時代では価値決定からも疎外されているのだ。したがって革命の暁には、大衆はみずからの価値、それをみずから価値づける力を回復する。

 ここでの大衆とは生産する大衆だ。実際に自然に働きかける人間である。そのような人間の生み出す価値に、意味がないことがあろうか。

 ……とここまで考えて、うーんやっぱりこれもポジティブな差別だとゆきづまった。いろんな事情から、どうしたって働けない人はいるし、そういう人が価値がないのか・あるいは価値を生まないのかときかれたらイエスとは言いたくないしそうは思ってない。

 まだ理路は残っている。 

 (1)価値が創造されるのは労働を通してだけにかぎらない。(1-2)既存物の消費=受益にこそ価値が……とすすめると今度は功利主義パーソン論をどうかわすかが問題だ。

 存在そのものの神聖さ、その平等を宗教によらずに語らなければならない。わたしたちはしらふのままで。