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ゲットーのボクサーに人間の理想を見る/ヴァカン『ボディ&ソウル:ある社会学者のボクシング・エスノグラフィ―』(2006=2013)

ボディ&ソウル: ある社会学者のボクシング・エスノグラフィー

ボディ&ソウル: ある社会学者のボクシング・エスノグラフィー

 

 (以下感想)

 著者のロイック・ヴァカン(1960~)は現在UCバークレーの教授。フランスからやってきて、2002年にはどちゃくそケンカ腰のレビュー論文でアメリカ社会学に殴り込みをかけたり*1、その後も師であるブルデューと共にアメリカの社会学や出版事情に批判をかましたりしている。ヴァカン自身の研究はアメリカとフランスの比較分析であり、大西洋をまたぐ研究が高く評価されているのか、日本でもすばやい翻訳が出ている。本書はシカゴ大での院生時代のフィールド調査をもとにした、アメリカの黒人ゲットーのエスノグラフィー。2006年に英語版が出版、2013年に邦訳がでている。

こなれているが、首をかしげる点も目立つ邦訳

 もともとヴァカンの文章には独特の読みにくさがあるが、邦訳は非常に読みやすくなっている。訳文に日本語としての不自然さはほとんど感じられない。たびたび挿入されるフィールドノーツ(調査の場面を書き起こしたメモ)でのボクサーたちの会話は「~ってな」「~ねえぜ」口調で訳され、ゲットーに住む黒人たちの語り口を示そうとしている*2。院生だったヴァカンが黒人地区のボクシングジムに入り込んだきっかけも大学キャンパスのある富裕な地区とただ一本の道路を挟んで近接するサウスサイドの荒廃したありさま、両者の著しい分離と対照に衝撃をうけ、実地調査を決意したためとある。だから、確かに主題は都市のゲットーの参与観察であり、また観察の手法そのものでもあり、ボクサーの「肉体の社会学」でもある。したがって訳者がそれらに精通していることは、本書の具体的な記述を読みやすいものにしている(訳者は3人ともスポーツについての社会学者)。 

精神/感情の二項対立をとり崩す

 しかし本書をもっとも根底的なところで動機づけているのは「人間の感情や肉体が(人間理性や精神と同様に)考察に値する」ことを実践的に証明するというモチーフである。それは冒頭のエピグラフスピノザが引用されていることが明確に示している。

 西洋の哲学では長年にわたり人間の「精神」と「肉体」、ないし「理性」と「意思」が区別され、前者の後者に対する優越が説かれたり、さらには分析の比重も前者にばかりおかれてきた。その代表がデカルト的二元論であって、以降の多くの哲学はこの対立をいかに乗り越えるかという試みとして読み解くことができる(ブルデューもヴァカンの共著の中で、自身の研究が構造(客観)/個人(主観)の調停という点でこの流れを汲んでいることを明示的に述べている)。ヴァカンも例外ではない。ざっくりいえば、人間の感情というものはしばしば思うようにならず、人間を惑わすけれど、それが人間の本性(生きたい・自分を残したいという欲求やそのための努力)から必然的に由来する以上、精神と同様に人間にとって本質的なのであって、したがって感情を正しく認識しようという実践も欠かすことができない。意識的に感情的であること。その遂行的証明こそがスピノザ『エチカ』の第三部(以降)なのだった。

 ボクサーの実践も、一見ただただ乱暴に拳を振り回しているだけだと思われている。しかしその実、試合にむけてのきびしい節制をやり抜き、リングの上では意識的に感情的にならねばならないことが示すように(いちいち考えてからパンチなんか出せない)、自身の感情と身体を効果的に運用することに支えられている。ここに技巧的であることと、獰猛であることは対立していない。技巧的に自然体であること。この逆説を成り立たせるのがボクシングの教授法であり、成り立つのがボクサーの身体なのだ。ヴァカンはそこにスピノザ的な人間の理想をみている。

「科学的野蛮な実践 」

 なにが言いたかったというと、邦訳版の章タイトル「科学的野蛮な実践」では、この二項対立の調停という含意がぼやけてしまっている。原文は「A Scientifically Savage Practice」。科学と野蛮はことさらに対立していない。本文中のほかの意訳はいいように作用していると思うが、ここは文法に忠実に「科学的野蛮な……」と訳すべきだったろう(副詞は形容詞にかかる……)。あるいはscientific が a scientific boxer 「技巧派のボクサー」として使われることを思えば「技巧的に自然体の……」でもよかったかもしれない(どのみちうまくはないけど)。

 ほかにも、同じ章について訳者あとがきでは「科学的で獰猛な実践」と書いてあって訳者間で統一がされていなかったり、また他個所では明らかに「両義的・多義的な」のambigueを「曖昧な」とだけ訳してあったり(本書のほかの語彙からも、ambiguが現象学からの借用であることは想像がつく*3し、具体的な用例に即しても「ジムの老コーチ、ディーディーはボクサーたちのコーチであり親であり時には身元保証人であり……」という話なので、関係は多義的であって曖昧じゃない*4。)ほか、日本語版さくいんにナ行がない(初版第一刷・それこそ「肉体の社会学」でも入れればよいのに)とか、全体的にどうにも訳を急いだきらいがある。

 具体的な練習場面、スパーリングの記述はとてもいきいきしている。その良さは翻訳を経ても損なわれていない。それだけに理論的な支柱の、つかめなさがかえって印象に残った。

*1:この時点のヴァカンはまだろくに単著もでていないはずで、この論文「Scrutinizing the Street: Poverty, Morality, and the Pitfalls of Urban Ethnography」が当時のアメリカ社会学でどのように受け止められたかは推して知るべし……というか、批判の対象になった研究者たちの反論がもうカンカンでいらっしゃって、読みがいがある。論文はちょっとふっかけたほうが被引用数が稼げるんですかね……。そもそも日本では書評論文で全否定はあまり見ない気がする。あえて日本の社会学で例えるならどうだろう、古市さんが名だたるフィールドワーカー達をメッタ斬り! みたいな読みものになるんだろうか?

*2:ただ、特定の人物類型にステレオタイプ的に役割語をあてること自体の是非は、別に考える必要がある。これは外国語の翻訳にだけかかわる問題ではない。例えば同じ日本語⇒日本語でも、方言話者のインタビューを書き起こすときに語り口をどのように書き表すかが同様の問題であるだろう。たびたび見かける「~なンだ」「~ョ」などの口調上の表記は、確かになにかを表したかった、再現したかったという意図はわかる。しかしそれは本当に「再現」なのだろうか。つまり、それらの表記は本当に彼あるいは彼女の語りそのものに忠実なのだろうか? ある語りを再現しようと創意工夫するとき、わたしたちが忠実であるのは、ある種の「型」やステレオタイプに対してであって、その作業は結局のところ、聴き手の偏光レンズに通したあとのものをまた熱心に型にはめ直している(そして、読み手にも同じステレオタイプの再利用を勧めている)だけなのではないのか。

*3:相互浸透、相互所有……etc。ただヴァカンの使い方もぶっちゃけ微妙だなと思う

*4:同じことはほかの社会学系の訳書でも思う。ただあまりに似たような例にあうので、もしかすると「曖昧」でそろえようという流れがあるのかもしれない。ただブルデューについて「実践感覚という曖昧な論理」というのはほとんどディスりと化してないですかね……?